福岡県の城跡

 
 
 
第一水門
 福岡県上毛町

「唐原山城跡」

当寺の東アジアにおける緊張関係を背景に、倭国防衛のため西日本各地に造られた大規模な城を「朝鮮式山城」と呼んでいます。一方、文献に記載がない山城は「神籠石系山城」と呼ばれています。神籠石系山城の多くは山腹を列石で囲んだ状況から、霊域を示すものと考えられ「神籠石」と呼ばれました。発掘調査の結果、防衛施設であることが判明し、現在16の城が確認されています。
唐原山城跡は神籠石系山城に分類されます。山国川左岸の丘陵上にあり、標高83.5mを最高地点として、3ケ所の谷を取り込んで築造されています。
この山城に使用された列石は、16世紀後半におこなわれた中津城築城の際に運び出され、城の石垣に転用されました。
~説明板より~
 

   
左と上の画像 2016年1月31日

 
福岡県豊前市山内


 常在山如法寺

「如法寺城跡(山内城跡)」

   
   
   
   
   
 

宝地院跡から山頂にある白山権現神社へ
この城は、宇都宮氏の一族如法寺氏の居城と考えられます。「紀井宇都宮系図」によれば、宇都宮信房の三男に、如法寺信政の名があり、また、「宇都宮家譜」に、文治二年(1186)に信房によって如法寺が建立され、座主に三男の信政を任じて、この後に如法寺氏を名乗ったことが記されています。ただし、ここでいう如法寺は創建時のものとは違います。
城跡といわれるのは背後の「山の神」といわれる山頂で、その東麗に残る「城の腰」と呼ばれる地名が当時を偲ばせています。
天正十五年(1587)上毛郡(豊前市と築上郡東部)の在地豪族は、領主である黒田孝高に反旗を翻します。如法寺孫次郎(如法寺城主)、緒方惟綱(緒方城主)、日隈小次郎直次(日隈城主)、有吉内記(高田城主)、城井弥七郎知房(岡城主)などの面々です。しかし、圧倒的な勢力を持つ黒田氏はまず日隈城を攻め、続いて緒方城、如法寺城を攻略します。戦いは黒田軍の圧勝に終わります。ここに四百余年に亘り上毛郡内に君臨した如法寺一族は滅び、名刹如法寺も天台寺院としての役割を終わります。