屋山を望む金宗院跡

 
豊後高田市

「吉弘氏菩提寺 金宗院跡」

金宗院は永享八年(1436)の開基と言われ、屋山城主であった、大友氏の三大老吉弘氏の菩提寺として栄えてきた。

吉弘氏は、大友氏の重臣として、中国地方の大内氏に対抗するため、屋山城主として当地を治めた。吉弘家からは、柳川城主(福岡県)立花宗茂を輩出し、朝鮮出兵(1592)などで多くの武功をあげた一族であった。

武将吉弘統幸(第五代屋山城主)は、関ヶ原の役(1600)で豊臣方に参じ、黒田軍と石垣原で戦い、孤軍奮闘したが壮絶な討死をした。

当寺の金宗院の住職は、ひそかに統幸の首級を持ち帰り、寺内に葬った。

終戦後、寺は無住にとなり、寺屋は崩壊し、金宗院の名のみを残してきたが、吉弘氏の子孫や住民により、供養塔が建てられ、金宗院跡として遺されている。



 「吉名川秘話」

屋山城主であった吉弘嘉兵衛統幸は、黒田如水の大軍8千と別府の石垣原で戦いました。しかし、統幸の軍2千では勝利を収めることができず、戦死しました。
その首は石垣原の獄門台にさらされました。
敗戦を聞いた菩提寺、金宗院の住職は、統幸の霊を弔うために、その首を石垣原へ取り戻しに行きました。
統幸の首は、風に光るかや原の中に変り果ててさらされていました。
住職が涙ながらにその首を背負い、鹿鳴越から奥畑をとおりやっとの思いで松行まで帰り着き、前の川で首を洗おうとした時です。
統幸は「カッ」と目を開け、「ああ、住職よしな(吉名)と叫んだのです。住職は驚き、洗うのをやめました。
そして、寺に持ち帰り厚く供養しました。
それから、いつしかこの川を吉名川と呼ぶようになりました。