熊本県 産山を通る豊後街道(石畳道)
徳川幕府は、大名統制のため寛永12年(1635)1年おきに江戸在府と在国をくりかえす参勤交代を制度化した。 説明板より 肥後藩の参勤交代道の一つ豊後街道は、熊本城から大津、二重峠、的石、内牧、坂梨、笹倉、大利を経て大分県の久住、野津原、鶴崎港までの121kmで、当時は5日間を要した。産山村内の街道は、阿蘇市(旧波野村)境の壁谷から大分県境の境の松までの4キロで、道の両側には松が植えられた。 熊本城を起点に4キロ毎に設けられた一里塚が十六里塚にあたる谷大利にあり、通称一里山と呼ばれている。また近くには、藩主の休息場所である御休所跡もある。弁天坂、境の松坂は、二重峠、滝室坂と並ぶ急峻な坂であり、土砂崩壊が激しく、公役で道普請を行った地元民の苦労は、大変なものであった。弁天坂、境の松坂の両坂に現存している石畳は、文化四年(1807)から四年かけて、久住手水の惣庄屋久住善兵衛のもとに、地元民の公役によって造られたものである。 国指定史跡 豊後街道 江戸まで 296里 1184km |
豊後側 ![]() |
![]() 境の松の石畳 現存 0.7km ![]() ![]() 訪問日 2015-3-8 ![]() |
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