この石段は、鎌倉時代建久七年(1196)豊後国の守護となった大友能直により、この地を与えられた家臣、高田掃部助重定が高田城を築いた折に開かれた。
主家大友氏の改易により、高田氏の治世は十七代四百年で終わり、文禄二年(1593)高田城に入城した竹中重利(豊臣秀吉の軍師竹中半兵衛の従弟)は本格的な築城にかかり、本丸・内堀や大手門の真下にこの石段等を設えたが、慶長六年(1601)石垣原合戦の功によって大分府内城に栄転し、天守閣等は未着工に終った。三十余年の城主不在の時を経て、寛永十六年(1639)居城を豊前国龍王城から高田城に移した松平重直は、高田城の再築、二の丸、三の丸と拡張に力を尽くしたが同十九年死去、正保二年(1645)その子英親の木付城への転封により、高田城の拡張工事はは中断し廃城となり、その後二十余年は木付藩預かり地となった。寛文九年(1669)肥前島原藩主松平忠房公の領地となり、明治四年(1871)廃藩置県までの二百年間、ここ豊州領二万七千予石の領民は、島原藩と強い絆で結ばれた。この時期石段が、現在の様に整備された。一国一城の掟により、島原藩は城を築かず、城跡に高田御役所(高田陣屋)を置き九十九か村を治めた。

~説明板より~



     


豊後高田市


高田陣屋跡




左側の石垣が唯一現存している城壁の一部