養老三年(719)宇佐宮弥勒寺別当法蓮和尚は和尚山頂で修行中妙見山頂に瑞光を感得して妙見大菩薩を山上に祀る。
天慶三年(940)伊予国日振島の藤原純友は妙見山極楽寺城を築く。
建久六年(1195)宇都宮信房豊前国主となり妙見岳城を大薗に守らせる。
建武三年(1336)宇都宮久綱は子、親綱に妙見城を守らせる。
文中三年(1370)大内義弘は豊前守護職となり、杉氏を代将として妙見城を守らせる。
明応八年(1499)郡代佐田蓁景は宇佐群衆と妙見尾に在城して大友親治(剣山に本陣)軍と攻防、蓁景は人質として捕虜になる。
明応九年(1500)一月十日蓁景府内より脱出、同二十九日杉氏及び宇佐群衆は城を奪回す。
永正元年(1504)妙見城代は杉勘左衛門、城番は橋津四郎、城番人数100余名。
天文元年(1532)十月十日佐田朝景手兵百人杉秀連宇佐群衆妙見城を守る大友軍は玖珠郡士恵良四郎佐衛門盛種を中心として妙見城を包囲、攻防三ヶ月に及ぶ、大友方戦死十四人、大内方矢傷二十三人であった。
天文十一年(1542)赤尾賢種、元重氏城番
天文十二年(1543)城番萩原土佐守 七月城の芝矢倉三間破損 元重次郎佐衛門は人夫二十人引き連れ補修する。
八月四日萩原孫三郎は家葺き十人縄三束人夫二十人で塀五間など補修する。
天文十六年(1547)城番今仁氏、元重氏
天文二十年(1551)杉氏徹退、城井房統を城代とする。香志田氏房統を急襲し城に入る。
弘治二年(1556)大友の重臣田原親賢(紹忍)妙見城主となる豊前の小給人を登城させた。
弘治三年(1557)田原紹忍、木付鎮秀は二千余人を率いて妙見城に入る。
天正八年(1580)城番中今仁賢直死亡す。
天正十年(1582)十月十二日紹忍は安心院麟生と千代松丸を招待し帰途謀殺した。
天正十一年(1583)田原親盛(宗麟の第三子)妙見城代となる。
天正十四年(1586)親盛は司祭ペトロゴメスを招き伝導宿泊所を香下に建立、洗礼四百人
元和元年(1615)一国一城令 城破却
~説明板より~




山頂標高444m

当時は白岩部落側から登山道があり、人が歩くだけの幅ぐらいしかない道でしたが山上まで続いていました。

木々は背が低くて見通しがきき宇佐平野が見通せたし、松の木が多く松脂を取るための傷がほとんど松の幹に付いていました。
また三又部落から天狗松と呼ばれる大岩のあたりの松の木(当時、この松の木の下には宝剣が埋まっているという実しやかな話が子供たちの間で噂されていました。この松は現在は朽ち果ててありません。また近くの両川小学校の校歌に天狗松として歌詞にでてきます。)を目指して藪漕ぎで登りました。

今回は、白岩からの登山道は廃道かな、地図に見当たらず、(国土地理院の地図には載っています)香下ダムから登りました。





宇佐市院内町

妙見城跡

安心院千代松丸の墓









香下ダムの奥、石山へ向かう林道の取り付き部分、駐車場があります。妙見山登山道、看板が目印です。


木々の中で見えずらいですが数条の竪堀がみられます。右の画像

射場越 右妙見山頂 左谷山

手洗石

山頂まで後100mの地点

山頂部にある芝矢倉跡、周辺より少し高い。