この山城は跡は標高130mの丘陵上に造られています。南北80m・東西35mの長方形の平坦中心部を空堀と二重の土塁で囲んでおり、外側土塁までの規模は南北140m・東西80mを測ります。北東の隅には虎口がつくられており、敵が簡単に侵入できないように通路を折り曲げています。


16世紀前半(室町時代)のころ豊前地方は、中国地方の戦国大名である大内氏が支配していました。大内氏はあれていた宇佐神宮の大造営を行いましたが、赤尾氏は作事(建築)奉行などに任命されるほど有力な在地領主でした。弘治三年(1557)以降、豊前国は豊後の大友氏の支配となり、赤尾氏は渡辺氏(四日市)、中島氏(高家)などとともに、宇佐郡内での有力な大友方の武士となりました。天正六年(1578)大友氏が日向遠征で大敗した後、豊前地方の武士たちは大友方と反大友方に分裂し、戦が繰り返されました。

安心院の佐田家の古文書に 天正八年(1580)に長野氏(北九州)城井氏(築城町)などの軍勢が村中に放火し、赤尾統秀の「宅所」と「切寄」を襲ったが、この城が堅固であったのに加えて佐田氏(安心院町)などの応援があったので敵を撃退したとある。

  

光岡城跡

「県指定史跡」




「破壊された土塁と堀」

南と北側は、土塁を削って堀を埋めています。天正十五年(1587)九州平定を成し遂げた豊臣秀吉は、城割り令により敵の軍事拠点をつぶしました。豊前の領主となった黒田如水もさらにその政策を進めました。大友方の有力武士である赤尾氏の城も破壊されたはずであり、この土塁と堀の状態は「城割り」の具体例を示すものとして注目されます。