耶馬溪町    長岩城址


集落から橋を渡ると左の案内板があります。


谷川に沿って登ると左の案内板。東之台ー本丸ー西之台ー陣ケ迫と回りました。現在地の石塁が切れてから東之台の石塁までの間は急な勾配です。


竪堀上にある石塁、石塁に沿って登ります。


谷川沿いの現在地へ戻り反対側の陣屋跡へ、     「砲座跡」



陣屋跡を通り登ると砲座跡、おおよそ10mほどのはしごを登ると
この幅1mほどの尾根に出ます。


銃眼の穴のある石積櫓


下方から見る
 

長岩城の歴史

源頼朝が壇ノ浦で敗れた平家追討と義経探索の為、豊後に大友氏を、豊前に関東の武将宇都宮信房を派遣し守護職に任じた。
信房の次弟、重房は野仲郷の配当を受け野仲重房と名乗り、建久6年(1195)入部し尾屋敷城を築き一先ここに住し、領内巡視後、更に険峻な岸壁に囲まれた扇山(592m)に本丸を築き建久9年、今から約800年前この城に移った。これが長岩城で、野仲氏22代390年の居城であった。野仲重兼が歴史に名高い武将大友宗麟や黒田長政を迎え撃った戦国時代の名城であった。
元冠の役では筑前海岸の防備や志賀の島付近の戦で奮戦し、弘治2年(1556)には大友義鎮(宗麟)の3000の大軍と14日間闘った。攻めあぐんだ宗麟は、羅漢寺の玄承和尚を仲介に和睦し、受け入れた重兼は義鎮の一字をもらい鎮兼と改め大友軍の武将として豊前平定に奮戦した。
天正15年(1587)黒田長政は豊臣秀吉の命により、豊前の城井城宇都宮鎮房、長岩城野仲鎮兼の配下の諸城を攻め落とした。翌年3月、黒田軍は3500余騎の大軍で山国川を攻め上がり長岩城に追った。これを迎え撃つ野仲鎮兼一族郎党、雑兵合わせて1500余人、要塞堅固な地の利を頼みに、死を覚悟に戦った。
城方の武者南弥助は、黒田の猛将後藤又兵衛と一騎打をし、又兵衛はかろうじて味方の接近で助かったという。
一之城戸、二之城戸、三之城戸に攻め寄れば、岩の上にかねて仕掛けた石、大木を切って落とせば攻め登る黒田軍、千刃の谷に打落される。されど黒田軍ひるまず入れ替わり立ち替わり、絶壁に足場を求めよじ登り、三之城戸まで攻めた。三之城戸を破られた鎮兼せん方なく、今はこれまでと一族郎党33人名残りの酒宴を開き自害し、3日3晩の攻防戦で落城した。時は天正16年(1588)4月8日であった。
~パンフレットより~




 
  前回の訪問(2007年4月14日)から10年ぶりに訪問しました。
トイレ付きのきれいな駐車場が完成していました。




今回の訪問日2015年5月

前回とかぶる画像がありますが、前回断念した場所を追加しています。



昨年の大河ドラマの影響でしょうか。

のぼりが目立ちます。

橋を渡りのぼりに誘われるままに左へ。



「一之城戸」ココは場所がわからず調査して石垣を復元したそうです。









本丸への城門跡



城門から腰曲輪を通り本丸への入り口




陣屋跡から砲座を見て指示どうりに登ると梯子があります
前回は梯子の中央のみの固定でしたが、今回は梯子の足元もコンクリートで固めています。感謝


石積み櫓へ行く下りの梯子。


上の画像は今回
尾根の幅が狭くなったような気がしますが…

今回は危険が増してきたということでしょうか。
危険個所には転落滑落防止用にロープが張られています。


10年前の松の木の位置(ほぼ真ん中です)





耳を澄ますと野鳥の鳴き声が疲れた体を癒してくれます。





弓形砲座へ行く尾根
ここも急な勾配でロープを設置しています。


「弓形砲座」の看板の場所から

上で紹介した駐車場の位置から100mほど戻ると右のしたにある「板迫谷順路入り口」の看板があります。この看板の場所を左へ行くと、林道を抜け安全に「弓形砲座跡」へ行けます。

 
「おねがい」にもあるように、紹介した画像を回るだけで4時間ほどかかりました。

時間に余裕をもってください。
軽装での入山も控えたほうがいいです。