国東市の城跡
  国東市国東町

「富来城跡」


弘長元年(1261)築城される。その後富来氏は大友氏に終始一貫して忠誠を尽くしたが、大友氏没落により流浪。その後垣見(筧)氏の居城となるも、間もなく慶長五年(1600)黒田如水の軍により攻撃され激戦の末、開城するまで三百四拾年城地として続いた。また、足利尊氏が京都で敗戦後九州に落ちた際先ず富来の地に到着し、上洛のの折も再び富来から出陣したこと、及び三百年以上の長い間城地として続いたことからも瀬戸内海の要衝であったことが判る。今はこの城山に外廊物見が往時を偲ばれるのみであるが、空堀、鉄砲町、溝口、本丸、三の丸、城屋敷、隅櫓などの古名が残る。
~説明板より~


   
  初代 永井実貞(鎌倉家人)建久七年(1196)紀裕安の養子として、富来姓を名乗る。

九代 富来忠茂 十代 富来忠挙 建武三年(1336)三月足利尊氏富来城入城、その後多々良浜合戦等を経て、五月再び富来より上洛し、幕府を開くが、その間の富来氏の誠実な行動尊氏は殊の外感謝し、持所の旗と秘蔵の珠を贈るとともに高師直からも感状を贈られる。
十二代 富来繁英 大友家の大老に就任
十八代 富来実直 大友義鎮(宗麟)の近侍として活躍
二十代 富来統長 大友義統が豊臣秀吉から領地没収された為、流浪し、富来氏も離散。

文禄三年(1594) 垣見(筧)家純が豊臣秀吉の命により、富来藩二万石を封じられ入城。
慶長五年(1600)石垣原合戦 関ヶ原合戦
富来城主、垣見家純は、西軍について大垣城にて戦死。
富来城攻防戦九月二十三日~十月二日 城代垣見理右衛門は攻め寄せた黒田如水軍と対峙した。およそ十日間にも及ぶ激闘の末富来城は開城した。(宮本武蔵はこの合戦に黒田軍として参戦し足を負傷している)
慶長六年(1601) 木下延俊は日出に入部の際、垣見氏の富来城での勇猛果敢な活躍に心を打たれ、大手門の扉を日出城の裏門に使用した。

僅かに石垣が残ります
   
   
   
   
国東市安岐町

「安岐城跡」 

この台地は東は伊予灘、皆舞は安岐川に面する断崖、北は自然谷に囲まれており、この恵まれた条件を生かして、城造りが古くから行われてきました。南北朝時代に田原氏が安岐郷へ入り館を構え、室町時代に城郭を築いてと云われています。その後、戦国時代に入り長期の戦いにも耐えられるよう城の構造は設計され、田原氏の本拠地となりました。
豊臣秀吉家臣の武将熊谷直陳により、近世的な城郭に変身していきました。
西軍へついた熊谷直盛は黒田軍の攻撃により落城、本丸、天守跡、空堀が見られる。
~説明板より~


 

   国東市武蔵町

「吉弘城跡


 




   国東市国見町

「岐部城跡」





ペトロカスイ岐部公園の裏山が城跡です

山頂部
 

大友氏が石垣原で敗れると岐部氏も衰退する