宇佐市の城跡

   
宇佐市
高森城跡

「黒田家譜」には、豊臣秀吉の九州平定後の天正十五年(1587)七月、豊前六郡に入部した黒田官兵衛孝高が、弟の利高を宇佐郡に派遣して築かせたとあります。
この黒田氏の支配と共に宇都宮鎮房をはじめてとする在地土豪の反乱が起こり、高森城は宇佐郡と豊後境の一揆を鎮圧するための軍事的拠点であったものと考えられます。
以後、慶長五年に細川氏が入国し、宇佐郡支配の拠点を安心院龍王城に移すまでの間、存続していたものと思われます。
~説明板より~



 
   
   

 

城跡の主郭は長方形で周囲には土塁が巡らされ、土塁南角に櫓台跡が、東北側に虎口跡が見られる。主郭の北側一段下側には曲輪があり、建物跡が残り、さらに東北の下段には櫓台礎石群が見られる。曲輪の虎口は東側にあり、乱石積みの石垣が残る。
この城跡の圧巻は、城台の周囲に深い空堀り(横堀)と畝状空堀(竪壕)がコンパクトに巡らされ、さらに東側に石塁、北側に三重のの空堀・土塁が備えられ、また、北麓には石組井戸が残るなど、中世末期の典型的な野城の遺構が残っている。

 宇佐市安心院町
副城跡



副城は但馬国出石城に居た副氏が天文の頃(1532~1555)副村に城を築いたといわれている。また一説には、出石城主副甲斐守が九州に下り、合戦の功を得て三村一万八千石を貰い、永禄元年(1558)副越中守鎮安は副城主となったと言われている。また、香下文書中の宇佐郡36人衆に副但馬守(甲斐守の嫡子)の名前が見られ、永禄9年(1566)5月3日、田原紹忍の家臣によって副城が○○かれ、天正9年(1581)5月16日大友軍大津畄佐京○○宗澄は攻略され、一族は天正16年○○たと伝えられている。
~案内板より~


石組井戸
 
横堀
 
竪堀
 
虎口
 

櫓台跡

 宇佐市安心院町
龍王城(神楽岳城・臥牛城)跡



正安年中(十四世紀初頭)に宇佐大宮司安心院公泰により築城された連郭式山城です。
中世には、豊前国と豊後国の境にあるためこの地域での中核的な城とあいての機能を果たし、地頭安心院氏を中心とした抱城でした。
近世になると、細川氏が入部し龍王城を再普請し、準城下町に町並みも含め整備しています。その後、元和元年(1615)の一国一城令で破却され、寛永十六年(1639)に城主松平重直が高田城に移り、廃城となりました。町並みは、今もその面影を残しています

安心院千代松丸の墓
 
 
竜王山中腹の海神社まで車で来れます。



駐車場から山頂まで階段があります。当時のままの階段かはわかりません。
 
武家屋敷跡と思われる石垣
 
妙庵寺

 

龍王城主 細川幸隆公廟所

この廟は明治二十二年当時二十三世亮珍和尚の時 風雨にさらされるのはもったいないと旧肥後藩領及び久住町 鶴崎の有志により建立しました。
 



この山城は跡は標高130mの丘陵上に造られています。南北80m・東西35mの長方形の平坦中心部を空堀と二重の土塁で囲んでおり、外側土塁までの規模は南北140m・東西80mを測ります。北東の隅には虎口がつくられており、敵が簡単に侵入できないように通路を折り曲げています。


16世紀前半(室町時代)のころ豊前地方は、中国地方の戦国大名である大内氏が支配していました。大内氏はあれていた宇佐神宮の大造営を行いましたが、赤尾氏は作事(建築)奉行などに任命されるほど有力な在地領主でした。弘治三年(1557)以降、豊前国は豊後の大友氏の支配となり、赤尾氏は渡辺氏(四日市)、中島氏(高家)などとともに、宇佐郡内での有力な大友方の武士となりました。天正六年(1578)大友氏が日向遠征で大敗した後、豊前地方の武士たちは大友方と反大友方に分裂し、戦が繰り返されました。

安心院の佐田家の古文書に 天正八年(1580)に長野氏(北九州)城井氏(築城町)などの軍勢が村中に放火し、赤尾統秀の「宅所」と「切寄」を襲ったが、この城が堅固であったのに加えて佐田氏(安心院町)などの応援があったので敵を撃退したとある。


光岡城跡

「県指定史跡」

 

「破壊された土塁と堀」

南と北側は、土塁を削って堀を埋めています。天正十五年(1587)九州平定を成し遂げた豊臣秀吉は、城割り令により敵の軍事拠点をつぶしました。豊前の領主となった黒田如水もさらにその政策を進めました。大友方の有力武士である赤尾氏の城も破壊されたはずであり、この土塁と堀の状態は「城割り」の具体例を示すものとして注目されます。



   宇佐市院内町
櫛野城跡



櫛野橋のそばに碑、案内板あり
   
 

大分県宇佐市


宮熊城跡(城八幡宮)




見た感じ城跡と思わせるものは見えませんでした。